私の鬱の遷移、離婚からニュージーランドに行くまで

今日もいい天気なのに気分が沈むので、鬱と向き合い自分のアップダウンを綴ってみることにした。

幼少の頃から、ポジティブではなかったと思う。期末テスト、運動会や試合などの競争が伴うイベントはいつもお腹が痛くなったし、何日も前から心配していた。誰かに認めてもらいたい欲求は人一番強く、それは両親が私の勉強の成績やスポーツの結果にあまり関心を寄せなかったからだと思う。私の運動能力は平均よりも高く、何をやっても大抵学校で一番をとれるくらいだった。でも大きな試合に進むと、例えば東京ではやっと入賞できるかどうか程度のレベルで、全国規模の大会では一次予選を突破できるかどうかぐらいだった。それでも地元では一番で、そんな状況では自分が有能・無能の判断がつかない。もしかしたら、もし頑張ったらもっと上に行けるのかもしれない、と思った私は、高校で挫折したバスケットボールの後、人があまり選ばないレアな種目を選んだ。一種の格闘技だったが、競技人口が少なかったため、あれよあれよと上に進んだ。全国学生選手権2位、(殆ど出場選手はいなかったけれど)日本代表選考会出場、と、とても簡単にトップレベルまでいき、自分は世界に出れる人間なのかもと、大きな勘違いをした。今思えば、なんでそんなに上に行きたかったのか、そのタイトルに取り憑かれていたのか、分からない。でも、私にとって、スポーツで輝いている人は憧れで、どんな犠牲を払ってでも、それになれるのだったら、そこに到達できるのなら、最大限の努力する、というのが信条だった。

大学を卒業し、一社からラッキーにも内定をもらっていたのに、就職せずに競技スポーツを続けた。アルバイトでお金を稼いで、そのお金を練習の費用や遠征や試合に全て費やした。怪我も沢山して、手術もした。その時は必然だった。今振り返ると、私は学歴やチャンスを無駄にして、20代を無意味なものにつぎ込んだ阿呆である。

27歳の頃に、自分はメンタル的に上に立てる才能がないと、やっと気付いた。一番になる人間は、相手を蹴落とそうが足を引っ張ろうが何とも思わない、勝つためには手段を選ばないタイプの人間で、私といえば、良い人間とは言えないが、人を踏みにじったりバカにしたり、嫌がらせをしたり、自分の事だけ考えて勝ち進むのは嫌で、それをしたら人間の価値が下がる気がしてしまう。そんなことを考える人間は勝てないのである。日本のトップに近い成績で終わったけれど、トップとの差は歴然だった。経験的にも技術的にも敵わない相手と闘っていたと気づいた時のショックは大きく、自分が勘違いをしたために、格上の人間と一緒の土俵に立っていたことを恥じたし、自分が費やした時間をとても後悔した。

たかだか地域で運動神経が良いぐらいのレベルで、世界を目指して、現実を見れなかった代償が鬱だった。悔やみきれない自分のミスチョイスへの憤り、もう一度人生やり直せたら、という思い。

落ち込んだ時に寄り添ってくれた人と恋に落ちて結婚した。27歳の時だった。その時はそれが正しいと思った。彼もとても優しかった。彼は中国人で、日本では3つのアルバイトを掛け持ちして私を食べさせようと努力してくれたが、うちの親のプレッシャーや干渉が嫌で、中国に帰りたいと言い出した。結婚二年目、彼への恩返しのつもりで彼の故郷に帰った。

1か月、2か月、半年たっても彼は仕事を見つけることができなかった。日本で過ごしていたという自負やプライドが邪魔し、自分は”普通”の中国人とは違うんだ、日本にいたんだぞ、日本人の奥さんを持てる優秀な人間なんだぞ、どんな仕事でもいい、なんて思えない、レストランのウェイターやタクシーの運転手なんて出来るわけない、それが彼の言い分で、仕事に就けないのに、日本で貯めたお金を頭金にして全部使って、マンションを買ってしまった。私は何故か反対できなかった。

8か月たっても仕事は見つからなかった。中国には友達がいるから、困ったら友達が食わせてくれる。それに自分のお母さんは働いてるから、そんなにお金が欲しいならお母さんからお金貰う、などと言い始めた。本人は全く健康で、時間は有り余っているのに、自分に厳しくできず、周りを使おうとする怠けモノの態度が気に入らなかった。また、お金は底をついていたが、あなたは僕と結婚したのは愛の為ではなくお金の為だったんだね、などと言い始めた。

うちの実家のがよほど裕福だったのだけれど。私の両親がアパートの家賃を払っていたのも問題だったのかもしれない。彼は、人生という大きな川の流れで、逆らわず、ただ流されていくことを選び、私は川の中に立っている杭につかまろうと必死だった。私が抗って流されないように耐えている間に、彼との距離はどんどん広がり、元の場所に戻れる状態ではなくなっていた。

彼はテレビゲームにハマり、ゲームをしながらパソコンで友人とチャットをし、携帯でも頻繁に誰かと繋がっていた。一日中ソファに転がって、私は飯炊き係になった。また、頻繁に外に飲みに行くようになった彼は、夜中に泥酔で帰宅することも多かった。私は仕事を探し、日系のデパートのデリでバイトを始めた。不便な所にマンションを買ってしまったので、通勤は彼が送り迎えしてくれた。でも私が勤務している間、彼はそのデパートの高級カフェで一日中ネットをして待っていた。彼のお金は自分の母親と、日本のパトロンから出ていた。

私は日本の実家に戻り、彼は中国に留まった。理由はわからない。その後半年後に離婚。

別居から離婚までも、なんとか元に戻れないかと、第三の土地でのリスタートや、二人で出来る仕事も提案したが、断られた。彼にとって、何が嫌だったのか今でもわからない。無職の彼を辛抱強く待てない私が、結婚を誓ったクセにその程度だったのかと、怒っていたのかもしれない。そんな彼が最後に言った言葉はこれだった。『僕があなたを選んだのは、あなたが料理が上手で、やさしくて面倒見が良くて、僕が日本で大変だった時に助けてくれたから。愛していたかどうかはわからない。』自分の事を愛していなかった男と20代後半の大事な5年間を過ごし、台無しにし、バツまでつけてしまった30歳間際の私は、ボロボロだった。

リスタートには時間がかかった。農業体験に田舎に行ったり、離島に住み込みアルバイトに行ったり、婚活パーティに行ったり、一貫性のない思い付きのままの行動をたくさんとって、なにひとつ傷を癒してくれるものはなかった。

年齢的に、周りの友達は子供を持ち始めていて、一方、私は独りになったばかりだった。前夫と口論した後に、中国のマンションで床に転がり、泣きながら見つめた天井は忘れられない。あれが私の人生のボトムであり、当時は死ぬ事も考えた。怖すぎてできなかったけれど。残された家族を考えると、なんて綺麗ごとではなくて、ただ、自分を傷つけて死ぬことが怖く出来なかった。これからどうするか。色々考えた。貯金を全部使ってから死んでも遅くないなと思った。何がやりたいかな。すぐ死ぬんだったらその前にどこに行きたいかな?そう考えると、行きたい場所がまだたくさんあった。

世界のトップ10シティ…。カナダ、オークランド、メルボルン…。留学したいかも、と思うようになった。中国語は大して実用性がないが、英語が話せないのは困る。英語をバケットリストに入れよう。

こうして私のNZ行きは決まった。体のことなんて気にしなかった。時給1000円で満足だった。12時間働いても、頭は何も感じなかった。疲れた方が都合が良かった。NZは私のラストリゾートに思えた。毎日暗くて、人と話すのも億劫だった。コンタクトはつけずにいつも眼鏡で、いつもすっぴん。髪はベリーショートにした。出家した気分だった。

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